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九鬼物語 

 文:覚 和歌子

 

その昔、役行者によって改心させられ従者になった鬼の夫婦がいた。洞川はこの鬼の末裔たちが営んでいる村である。彼らは人間界と平和に交わるため、徐々に本来の鬼性(超常性)をそれとわからないように内に秘めていった。人間界に溶け込んでいった結果、いま鬼の末裔たちは人間と少しもたがわない風貌をしている。
 

長い時を経て時代は令和、日本のあちこちに、洞川出身ではないのに「洞川の鬼」と名乗る者たちが現れ始めた。全部で九人のものつくりたちである。彼らは世間に交わりきれない多少のはみ出し者たちではあったが、ある種の異能(ゼロから一を創り出す能力)を持ち、またその誰もが洞川で生まれ過ごした過去世記憶を持っている。その過去世記憶が彼らに創造力を覚醒させていることは間違いなかった。洞川の鬼の末裔たちが歴史を超えて自らをそう自称するなら、九人は時空を超えて「魂としての鬼」を自覚する者たちであった。


異能(創造力)は異能者のものだと、ひとは思い込んでいる。九人の「鬼」たちは、自分たちが特別な能力の持ち主なのではなく、常識や世俗的通念、思い込みの封印を解き、それを意識しさえすれば、本来は誰もが世界を、自らの宇宙を自在に創造するための神通力の持ち主、であることを知っている。


九人の「鬼」たちは人々に神通力が使えることを思い出してほしい。神通力の覚醒は、生存に対する不安や恐怖からの解放をもたらし、自然環境に対する畏敬や共生的社会を引き寄せる。遠回りに見えても、世界を変革するためのささやかだが有効な手段であるだろう。

詩人・谷川俊太郎は、やはり同じ想いを持ちながら、旅の途中ふと立ち寄った村で九人の「鬼」とめぐり会う。

谷川は縁があることを直感した九人の「鬼」たちそれぞれに詩の文言を与える。「鬼」たちは言葉に感応して作品創作をし、洞川の「鬼の末裔」たちと協働することによって祭をひらく。

それは、世界が封印してきた、ひとの中の「鬼」たる能力をふたたび開花させる祭だ。ひとが自らの日々を今よりさらに輝かせ、引いてはこの世に活性を溢れさせるために。


繰り返すが芸術は異能ではない。芸術と才能は誰のものでもない。夜空の満天の星のように、生きとし生ける者たち皆のものである。生み出すこと、生み出す力は、そのままいのちという力のことなのだから。

 

神ごとの儀式は完了したら跡かたも残さないことが本来であるが、「鬼」たちは魂の故郷である洞川で第一回目の「九鬼祭」を催した記憶として作品ごと洞川に残したい。


それは、何千年の昔から変わらない洞川の深く豊かな自然に、人々と九人の「鬼」たちが交流した熱いエネルギーの記録であり、「鬼」たちと洞川が交わる限り続いていく物語のことである。

 


注釈:
<「鬼」の定義>
民話に登場する「鬼」は、人外の者のキャラクターとしての属性が強いが、民俗学的には、人知を超えるもの、非日常性(ハレとケで言うハレ)、異能、霊性、神性などが象徴されている。また人工でないものという意味合いからは、「鬼」の本然は自然と超自然のエネルギーそのものとも言えるだろう。さらには「鬼っ子」などと使われるように、”他と違う単体”、”アウトロー”という意味もある。一般の生活者でない部分を生き方の中に持たざるを得ない、ある種の覚醒した位相に生きることを余儀なくされているという意味で、アーティストは「鬼」である。

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